韻とアイデアほか

日本語の押韻などに関する走り書きetc...

【走り書き】いちジャンルを打ち立てるために必要なこと

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 例えばロックが生まれたのにエレキギターの発明が寄与しているというのは当たり前であるけど、他にもドラムの素材や鳴り、ジャズの4ビートから8,16ビートに変化したり、ボーカルの発声が変化したり、総合的に変化している。ビジュアルもそうだし...

 

 もっといえばエレキギターの中でもピックアップという弦の『振動の検出方法』だったり、胴体の空洞でなく『電気的な増幅』という土俵が新しく生まれたりで、各分野の発明の上にジャンルが成り立ってるんだなと思う。

 

 で、これを順位として整理すると最終目標に『ジャンル』があり、そのひとつ下に『アイテム』があり、またアイテムはさらに下の『発明』によって生まれていると。

 

     ロックンロール

     ┏━━┷━━┳─

   エレキ弦   ・・・

  ┏━━┷━━┓

ピックアップ アンプ

 

 まあ当たり前な話なんですけどね。

 

 ここからなんですけど、最近分岐ジャンルが増えているのはエレクトリックミュージックで、これらは楽器という形を取らない(ハードでなくソフトウェア)わけですけど、例えば『ワブルベース』というアイテムの元には『フィルターLFO』という古い発明の再利用だったり、『ボーカロイド』は実のところ『サンプリング』だったりしますよね。

 

 さてこのさき、新しいジャンルを考えてくのには当然あたらしい『アイテム』から考える必要があるわけですけど、上述の通りここ最近は根元にある『発明』そのものが行われてないんじゃないかな〜と思うわけです。

 

 これってなんでなんだろうと思ったんですけど、エレキギターって要するにアナログとデジタルのハイブリッドなわけですよ。つまり何が言いたいかというと、「ここ最近の我々はアナログの方面から発明してないんじゃないか?」ということです。工作からの提案が欠けているんではと。

 

 何が理由なんだろう...と考えてみると先進国の通貨高が思い当たるし、あるいは単純に人類が可能性を掘り尽くしてしまっただけなのかも...なんてのも浮かびます。最近じゃ80'sのリバイバルなんてのも流行ってますし。

 

  でも個人的には「まだやれるでしょ!」って思うんですよね。エレキギター以前、金管楽器の、マウスピースから振動を伝達してピストンで管の長さを変え、ホーンで共鳴音を拡張する構造とかを眺めてると惚れ惚れとしてしまいますし、なんかやれそうな気になってくるんですが...

 

 この楽器の発明も整理して考えてみると

 

  振動生成(弦、マウスピース、打面、声帯)

    ↓

  物理的誤差(拡張時の形式、サイズによる変化)

    ↓

  音声拡張(アンプ、ホーン、箱鳴り、喉)

   

 こんな感じになると思うんですけど、なんかこの3つを同時にでなく、個別にひとつひとつ発明してったら新しい楽器できそうな気がしてきませんか? つまり新しい振動生成機、新しい拡張方法です。なんかだんだん自己啓発書みたいなノリになってきましたねコレ。

 

 まあそれが思いつかねえから停滞してんだろって感じですけど、こういうふうに問題を小規模に分割してったら、どっかの馬鹿と天才のハーフみたいな人がなにかしてくれるんじゃないかなと思うわけです。そこのアナタ、頑張って!

 

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 ここからは駄弁なんですが、このブログで『部屋(ジャンル)』という、簡単に言えば「サンプリングリバーブつかって部屋鳴りさせまくる楽曲」を提唱したわけですけど、まああれは冷静に考えてジャンルではないお遊びですよね。正確にいうとアレは『発明』、機能を分類すると『音声拡張』に、そして様々なサンプリングデータ(トンネルや教会、スタジオetc..)を『物理的誤差』と考えることができると思います。

 

 で、サンプリングリバーブってものすごく極端にいうと「死ぬほどでかい箱鳴り、ホーン」を再現してるってことだと思うんです。理論的にいえば、なんの変哲もない弦を箱鳴りさせずに録って、アコギの箱鳴りをサンプリングしたリバーブをかけたら、アコギの音になると思うんです。

 

 サンプリングリバーブってミックスの立体感を出すために使われがちですけど、これって画期的発明だと思うんですよね。アンプのような人工的な増幅と違って、ホーンや箱鳴りのように原音に対して大きな誤差を生み出せるわけですよ。

 

 で、じゃあサンプリングリバーブエレキギターにおけるアンプとしたら、あとはピックアップのような検出装置、まあそれが無理なら新しい『振動生成機』さえ開発できればなんか新しい『アイテム』ができそう...じゃないですか? ていうかここまで書いて気づきましたけど、エレキギターの画期的な面はアンプとピックアップで二重の(エフェクター含めたらそれ以上)原音誤差を生み出せるとこなんですな。

 

 というわけで今後の目標は「楽器で使われたことなさそうな振動」を見つけて「楽器という体になるように組み立てる」というとこを目標にやってくことでしょうかね。まあ気まぐれにゆっくり着手していこうかと思います...まあ、大それた駄文ですよコレは。

【韻律論】脚韻が単語単位でないといけない理由

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九鬼によれば、韻の量には音の応和が一音節に止まるものと、二音節にわたるものがある。さらに、前者は母音の応和である単純韻と、母音に先行する子音にわたっての応和である拡充単純韻とに分類され、後者は最後から二番目の音節の母音以下の応和である二重韻と、その母音に先行する子音にわたる応和を示す拡充二重韻とに分類される  

 ——『九鬼周造押韻論』大東 俊一より

 

 九鬼周造を代表としたマチネポエティク(昭和に行われた定型押韻論を試みる運動)の押韻論は音節に着目していて、おおざっぱにいえば「語尾のふた文字で母音をあわせましょう」という理論を打ち出していた。ここが95年にラップグループのキングギドラが提示した押韻法との決定的な違いで、前者はただ単に『音』を、後者は音をふくめつつ同時に『意味』を、それぞれ比較している。

 

 ごたくを並べるのは面倒なので結論から述べてしまうと、脚韻(文章末尾で行われる押韻)を単語で行わなければいけない最大の理由は『建設的だから』ということだ。

 

 マチネポエティクや現行の日本語ラップのようなある種やんわりとした...音節単位の押韻をつかう場合、どこでどのように踏んだかを記述するのに「あいうえお」や「何文字」といったことを意識すると思う。

 

 しかしこの「あいうえお」の母音のならびそれ自体は何の意味ももたない無機質な記号でしかなく、たとえば韻文を評論するときに「豚肉」という単語から「うあいう」という無秩序な母音のならびを引っこ抜いてきて評価することはない

 

  スーパーで買ったおいしい豚肉(aiu

  燻してベーコンにしたらかじる(aiu

 

 このように一致した母音を引き抜くと、われわれは必然的に、それを音節の量によって測ってしまうはずだ。この場合「3音節」といったぐあいに。しかしでは、音節の量が多ければ多いほど高度で優れているのか? あるいは1音節の一致は押韻といえないのか? 最低でも何音節踏めば...

 

 などなど、量を基軸にした話は不毛になりやすい。なぜかといえばそれは個人の酌量に委ねられるからだ。「どこからが金持ちで、どこからが貧乏、どこから幸せ?」という問いと同じ答えが出る。「ひとによりますよ」と。

 

 

 とこんな感じで、単純な"母音合わせ"は評論するうえで割と不都合が大きい。ではそれに対して単語単位の押韻はどこが優れているのか? それはパターンを分析できるという点につきる。例文を載せようとしたが日本語にはあまりに単語単位の韻がないので、ここではシェイクスピアソネット集の有名な18番を引用してみようと思う。

 

  Shall I compare thee to a summer's day?

  Thou art more lovely and more temperate

  Rough winds do shake the darling buds of May,

  And summer's lease hath all too short a date

 

 ここでは「summer's day(夏の日)」「temperate(穏便)」「buds of May(五月の蕾)」「short a date(短い月日)」という語群にアクセントが置かれ、その中でday-rate-may-dateが完全韻ABABの形式で押韻されている。

 

 そして重要なのが「これらのパターンが四世紀前に既に行われている」という記録だ。これら4つの語群がこのような順番で、こういった文脈のなかで登場するという記録があることで、以降の詩人はこのパターンにうかつに手を出せなくなり、他のパターンを探さなければならなくなる。

 

 こういったことは、単語単位でない「一部の母音の一致」では起きない。先ほど書いた「豚肉-かじる」の母音一致の何が劣っているか詳しく書くと、これらは「豚+肉」と「かじ+る」に分けられ、前者は「ぶ」という音が押韻されておらず、後者は「る」という単語でない接尾辞が混入しており、結果として「豚肉 - かじる」は単語単位の韻、パターンとして認識できないものとなってしまっている。

 

 パターンの創造は非常に重要だ。パターンを生み出すことで記録され、文脈に前例を作り、また新たなパターンを探し出す...という建設的な創造のくりかえしが行われるからだ。こういったパターンのサイクルが見えてこないものは概ね発展しない。

 

 そして日本語における押韻詩のほとんどがこのパターンの構築を欠いており、結果として定型押韻詩の土壌は「ただ語尾の母音が一致してる散文」という体をなしてしまっている。自分はマチネポエティクという運動が、その初めの一歩目からことを誤っていたように思える。定型押韻詩の土壌にまず必要なのは『単語単位で韻を踏まなければいけない』という認識だ。

 

 

 最後にもういちど言うが、重要なのはパターンの創造なのだ。一般大衆にもわかりやすいようなパターンを創造をできないかぎり、その分野に発展はない。「韻をふむ」という言葉の意味を思い出してもらいたい。

【VOCALOID】部屋(ジャンル)について ①部屋感、およびボカロである必然性

・・・部屋(ジャンル)とは

 VOCALOID楽曲において"部屋鳴り"を念頭において制作された曲の総称である。

 ジャズ、ロック、テクノなど、楽器群の区分けを問わず、

 "著者が部屋鳴りに重きを置いた"ものはすべてこのタグに収められる、とする。

 

どうも、Tachibuanaです。

今回は、以前から投稿動画で明言している『部屋(ジャンル)』についてちょろっと書きたいと思います。

 

さてどこから書けばいいのやら自分でも分からないので、まずこのタグを作るインスピレーションの元になった"部屋を感じる楽曲群"をてっとりばやく紹介したいと思います。「そもそも"部屋感"ってなんだよ?」って話ですからね。

 

Bill Evans Trio - Detour Ahead (take 2)


Bill Evans Trio Detour Ahead (take 2) Waltz for Debby 1961

 

この曲は言わずと知れたジャズの名盤『Walts for Debby』から。演奏の最高さはともかくとして、この客席のざわめき、そして食器音!エンジニアの録音レベルへの配慮がこうしたのかもしれませんが、とても"部屋"を感じるでしょう...素晴らしい!

 

Tom Waits - Jesus Gonna Be Here


Tom Waits - Jesus Gonna Be Here

 

酔いどれ詩人ことトムウェイツの怪盤『Bone Machine』から。このかすれた力強いボーカル、ちょっと遠いベース、ささやかなパーカッション(本人による)など、全体でとっても空間的な音で構成されてると思います。

このアルバムは他にも『Such a Scream』『In the Colosseum』『Murder in the Red Burn』など、やたら反響音のでかい音で構成されてて楽しいです。

 

Port O'Brien - I Woke Up Today (Original Version)

【整理】部分倒置をつかって動詞で脚韻をふむ

どうも〜〜Tachibuanaです。今回は前回に引き続き、倒置法を利用して韻をふむ方法を解説したいと思います。前回は目的語(O)で韻をふむのが目標でしたが、今回は動詞(V)による方法です。比較的みじかめなTipsになります。

 

さて前回説明したとおり、日本語の訓読み動詞というのは1語のようでいて、行動と接尾辞による2語で成り立っているといえます。例えば「たべる」でいうなら「たべ(行動)」にたいして接尾辞「る(現在形)」がくっついてくる、という形です。

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おさらい終了。では例の例文を見ていきましょう。

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「わたし は りんご を たべる」

そして今回の目的は「動詞で脚韻を踏む」です。

 

「たべる」が最後にきているからこれでいいじゃ〜ん、と思いがちです。ええ、そのように見えます。ですが、説明したとおり文末にきているのは接尾辞「る(現在形)」のため、厳密に言えば最後にきてるのは接尾辞です。しかも「たべ(行動)」を含めた2語なので、純粋な”1対1の単語韻”になりません。前回のTipsで説明しそびれましたが、「なんで1対1じゃないとダメなの?」と思うでしょう?

 

たとえばの話です。「たべる」という言葉に対して「破滅」という韻を踏んだとしましょう。それぞれの母音を抜き出すと「aeu」で韻を踏んでいることになります。ですがもし前者を「たべた」と過去形で表現したとしたら?

 

ここが問題になります。つまり「差別」で韻をふむ場合、言葉選びは容赦無く「たべ-る(現在形)」に拘束されることになってしまいます。「たべ-よう」でも「たべ-た」でも完全韻(すべての母音がそろった韻)を踏むことはできません。逆に言い換えるなら、たとえ過去形で表現したいのであっても、韻を踏むために無理やり現在形にねじまげなくてはいけない、ということです。

 

韻を踏むという行為をする以上、必然的に「表現のために単語を変える」ということがおこなわれます。ですが目的語による押韻が「モノからモノ」へ単語を変えるのに対して、"接尾辞を含んだ"動詞のばあい、「表現したい意思の方向性そのもの」を変えなければならなくなってしまうのです。

 

そしてこれが「日本語で韻を踏むとダサく聞こえる」原因の一端にもなっているのです!

 

 

それを回避するために、SVO倒置(”たべるよりんご”語順)をもちいることによって、前回は目的語による"単語韻"を成立させることができました。しかしでは、日本語の動詞では単語韻を踏むことはできないのでしょうか?

 

いいえ、できます。

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さてここでいったん思考を整理しましょう。今回の問題は、

  • 動詞に接尾辞がくっついてて、韻をふむシチュエーションが限られてしまう。
  • しかしなんとか動詞を末尾に残したまま韻が踏みたい。

この2つです。では、すべきことはなんでしょう?それはやっかいな接尾辞をどうにかすることです。どうにかってどうするの...ということで、ここから仮定をいくつか立てて、理論を組んでみます。

  1. 「たべ(行動)」と「る(接尾辞)」を切り離せるとする。
  2. そして「る(接尾辞)」を文末から別の位置に倒置できるとする。
  3. 「たべ(行動)」のみで、シチュエーションにしばられず脚韻をふむことができる。

では実践してみましょう。

 

まず1.接尾辞を行動から切り離すです。まず単語「たべる」をみていきましょう。

 

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「たべ-る」です。これをそのまま「たべ」と「る」に切り離してアレコレすればもちろん怪文章ができあがりますが、今回目指すのは「割と日本語として成立してる」文章です。さてどうしましょう?

 

記事の最初の方で言ったように、訓読みの動詞というのは行動と接尾辞がくっついていて、あたかも2語のようにふたつの意味をもっています。

では、実際にふたつの単語に分けたとしたらどうなるでしょう?

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そうです。我々には熟語があるじゃないですか!

たべる、という行為は熟語に置き換えれば食事、あるいは咀嚼ということばを充てることができます。類語辞典なんかを引いてみればもっと別の言葉が見つかるかもしれません。とにかく、"たべるという訓読み""食事/咀嚼という熟語"に置き換えることができるわけです!

 

そもそも我々日本人は中国から漢字を輸入してきて、それを独特なアレンジ、魔改造をほどこして(これを個人的に"茶碗化"と呼んでいるんですが)訓読みやかな文字を開発していったわけです。ですから、さかのぼって訓読みを漢字にすることだって可能なわけですね。ありがたいことに今日、日本語で熟語は廃れていませんから。

 

しかしこの「食事/咀嚼」という言葉は状況や意思の情報を持っていません。過去現在未来、あるいは要望や命令なのかが不明瞭です。そりゃそうです、だって接尾辞を切り離しちゃったんですから。かといって残った接尾辞「る」をそのままアレコレするわけにはいきません。「る」じゃなんの意味もない1文字ですからね。ですからこの「る」を同じ意味の別の言葉に置き換える必要があるわけです。

 

さてこの「る」とは現在形をあらわす接尾辞なわけですが、この現在形とはなんの「現在形」なんでしょう?...言ってしまいましょう。答えは「行動の現在形」です。では行動ってなんでしょう?...行動とは、"する"、ということです。

 

 する。これが行動の現在形です。では過去は?

した。未来なら?

するだろう。要望なら?

したい。命令なら?

しろ。必要なら?

すべき。義務なら?

しなければならない...こうです!

 

動詞とは、行動を表現する言葉に他なりません。ですから訓読み動詞を分解すると行動そのものを表す熟語のほかに、これらの意思や状況をあらわす語形が出現するはずです。もし「たべた」なら「食事した」に、「たべるだろう」なら「食事するだろう」...という具合にです。

 

ではこれを例文に置き換えてみましょう。するとこうなるはずです。

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さあ、後は接尾辞だった「する」を倒置するだけです!ここまできたら楽勝です、ひといきにやってしまいましょう。

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これで完成です。いささか無機質ですので、「するよ」とか「するぜ」とか口調を加えてあげると文章が柔らかくなっていいと思います。

 

 

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今回はここまでです。いかがでしたでしょうか?やってみれば簡単なことなんですが、ケーダブが倒置押韻法を開発するまで打開策がなかったように、やってみないと気づけない文章形式だったりします。これで目的語、動詞で単語韻を踏むことができるようになりました。

 

さらに言うなら、今回の押韻法を利用することで語形に縛られることなく動詞に対して目的語で韻を踏んだりできるようになったわけです!たとえば「咀嚼(動詞)」と「旅客(目的語)」のようにです。以前はこの咀嚼に過去現在未来...などの語形が張り付いて、一定の状況でしか韻が踏めなかったわけですね。これも熟語様々ですな!

 

というわけで動詞脚韻の項は以上になります!次回のTipsでお会いしましょう〜〜

 

【整理】倒置押韻法とそれによる弊害

どうもTachibuanaです。今回は日本語における倒置法を用いた押韻について、自己確認も含めた整理をしたいと思います。いつも通りおおざっぱな感じになりますがご了承を(ちなみに今回記述する韻はすべて脚韻についてであり、頭韻などははぶきます)。

 

ではまずこちらの例文をご覧ください。

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「わたしはりんごをたべる」、まあ普通の日本語ですね。では韻の話をはじめるまえに、この文章をもちいて日本語の文法についておさらいしておきましょう。日本語というのは言語学的にSVO型というものに分類されております。SVOというのは主語(Subject)、目的語(Object)、動詞(Verb)の頭文字をとったもので、まさに上の例文の語順のことをさします。

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そして単語のあいだに含まれている「は」「を」、これを助詞といい、さらに細かく分類すると「は」は係助詞、「を」は格助詞というものになります。他にも助詞はたくさんありますが、今回つかっているのはこのふたつです。助詞についての詳しい説明はこちらのWikipediaで見れます。

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おさらいはここまで。ではこの一文で脚韻(さいごの単語で韻をふむこと)をしようとするとどの単語になるか、というともちろん「たべる(動詞)」になりますね。ではこの「たべる」で韻を踏める動詞を並列してみましょう。すると「たべる/かせぐ/はねる/まける」のようになります。これらを見てみてください。なんとなく"韻を踏んだ感じ"がしないように思えないでしょうか。

 

ではこの"韻を踏んだ感じ"というのは一体なんなんでしょう?

 

答えをさきに書かさせていただくと、この"韻を踏んだ感じ"というのはひとつの単語にたいしてひとつの単語の韻を合わせる、ということに他なりません。「えっ、でもたべる/かせぐ/はねる/まけるって全部ひとつの単語じゃ〜ん」と思うでしょう、そうでしょう! でも違うんですね。じつは日本語における訓読みの動詞というのはふたつに分けることができるのです。

 

例えばりんごを「すでに食べてしまった」ということを表現する場合、「たべ-る」ではなく「たべ-た」と表記しますよね? これが欲求を表現したいなら「たべ-たい」、今現在口にしているなら「たべ-ている」と表記するはずです。この「たべ」の後ろにくっついて表現したいことを変えられることばを接尾辞といいます。日本語はこの接尾辞を使って過去現在未来...などの形式を表現しています

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なにが言いたいか。つまり訓読みの動詞というのは、1語のようで行動と形式(接尾辞)の合わさった2語と言えるのです。そして「たべ-る/かせ-ぐ/はね-る/かけ-る」で韻を踏んでいるのは行動そのものではなく、後ろにくっついている接尾辞の現在形なのです。逆に言ってしまえば、すべての動詞を現在形で表記しなければ韻が踏めないということになります。 

 

 じゃあどうすればいいんだよ!となったところで本題の倒置押韻が出てくるわけですね。倒置押韻法、これは要するに、目的語(今回でいう"りんご")が文章の最後にくるよう文を入れ替えることです。こうすることで接尾辞などによって変化する動詞が最後にこなくなり、純粋な「ひとつの単語にひとつの単語」で韻を踏めるわけですね。

 

この倒置法はかのラッパーK Dub Shineが開発したことで知られていますが、歴史的なことに関しては今回触れません(あしからず)。ではこの倒置法はいったいどう用いられているのか、図にしてみましょう。

 

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このようになります。「たべる」と「りんご を」を入れ替えて、「を」を打ち消すことで「りんご」という単語を最後に持ってくることができるわけです。やりました!これで日本語でも韻が踏める!しかしここでまたひとつの問題が出てきます。

 

それは日本語として不自然、ということです。

 

"どうして不自然か"ということに関して、いくつかの見方ができるかと思います。例えば打ち消してしまった格助詞の不在が文章の方向性を不安定にしているとか...しかしもっとも大きな問題は、実はもっと別の場所にあったのです。それは、動詞と目的語が結びついて、あたかもひとつの目的語になってしまっているように見える、ということです!

 

いったいどういうことか。同じ要領で倒置した、別の例文をもちいて説明しましょう。というか説明するまでもなく一目瞭然です。ご覧ください。

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あなたが怒れるゴリラか。

 

と、こういう具合です。つまり、「わたしはゴリラを怒る」はずが、あたかも「わたし」自身が「ゴリラ」になってしまっている、ということです。これが倒置押韻法をもちいるときの最大の弊害というわけです。

 

サラッと書いてますが、日本語ラップのライターや批評家の方達は、この点についてひとっことも指摘してこなかったんですよね。なので多くの人が問題の根源を理解していないし、何言ってるかわからない支離滅裂なラッパー(居ますよね?それもたくさん...)が後を絶たない!今後もし、国語の授業で倒置押韻法をつかった作詞などが盛り込まれるなら、是非ともこの点は記述すべきだと自分は思いますよ。

 

さあ嘆いてばかりもいられません。どうやってこの問題を解決すればいいでしょう?となるわけですが、いちおう改善策はあります。とっても簡単で、ただ動詞のあとに口調を加えればいいのです。図で見て見ましょう。

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こんな感じです。これでひとまず「わたし」が「ゴリラ」を「怒る」という意味を保ったまま、倒置法ができたのではないでしょうか(どうしてゴリラを怒るハメになったのか、というヤボな質問は回避していく)。

 

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長くなりましたが、これで今回の記事は以上になります。これから韻を踏んだ文章を書こうという方にも、参考になるのではないでしょうか?

次のTipsでお会いしましょう!

 

【補足】アクセント表記による効果レベルの測定

先日、sagishi氏による『押韻論/定義など』という記事が投稿されました。元記事はこちら。

必要箇所を要約させていただくと、

  • 押韻しているある一定範囲(スケール)をもつ語文/音の連続体を押韻価とする。
  • 押韻価はおおまかに押韻レベルと効果レベルに分けて分析できる。
  • 押韻レベルはモーラ内の母子音の一致の可否を分析する項目である
  • そして効果レベルの項目では音声ピッチの一致の可否を分析する。

以上のようなことが書かれていると思います。

しかし押韻レベルのモーラによる分類に対して、効果レベルの分類は具体的な記述がなされていないかと思います。その点を以下に、微力ながら補足させていただこうかと思います。

 

さて、この効果レベルとは押韻価上における"音声ピッチの上下"、つまりアクセントの一致のレベルを意味しますが、このアクセントの表記を日本語上で行う場合、どのようにすればよいでしょうか?いくつか理論がありますが、今回は以下のページに載っている城生佰太郎氏の表記法を用いたいと思います。

音声学的アクセントと音韻学的アクセント » NO LANGUAGE, NO LIFE.

城生は、国際音声記号(IPA)によるアクセント表記について記している。従来のアクセント表記は、上記したように音韻学的レベルを基調としてきたが、ここで問題になっているのが、高さの段階に関する問題であると城生は述べている。例えば「こうもり」のアクセントは

コーモリ/HLLL/(Lは低い平音、Hは高い平音)

と、音韻学的には表記されているが、実際のところは「こうもり」と発音すると、高さはたえず下降している。これを正確に表記しようとすれば、音声学的レベルからIPAなどの表記を用いるほかないとしている。しかしそれは、散々避難した音韻論的レベルからのアクセント表記になってしまう。

―モリ

では、後半部分の「―モリ」の部分がすべて[低低低]として扱われてしまっているところに問題がある。ここで城生は、音声の高さに段階をつけ、従来のHとLの間にMの層を設け、

コーモリ[HmML]

と表記している。最初のHが太字なのは、この音節が途中で下降を伴う長音節であることを示し、その次の小文字のmは第二音節にかけてHからMレベルに向けて下降することを示している。

 要約を行うと、

  • Hは一語中の高い音を、Lは低い音を表す。
  • M(大文字)は上下のない音、またはHLに対して中間の音を表す。
  • m(小文字)はHまたはL(高低)からM(中)への滑音/ピッチベンドを表す。

このようなことが書かれていると思います。ではこの表記法で、先述したsagishi氏の記事の例文を分析してみましょう。

 

例:

押韻価A:冥土の土産(LHH_M_MMM)

押韻価B:軽度の痛手(HmM_M_MMM)

 

この場合、まず「冥土(LHH)」に対して「軽度(HmM)」はピッチが異なるため効果レベルを【 × 】とします。次に、つづく接続語「の」と「土産/痛手」は(M_MMM)で音声のピッチが一致しているため効果レベルを【 : 】とします。

このようなプロセスを経ることによって、最後に総括し、押韻価ABの効果レベルを【 × × × : : : : 】と表記することができるのではないでしょうか。

急ぎになってしまいましたが、私からの補足は以上になります。