韻とアイデアほか

日本語の押韻などに関する走り書きetc...

【韻律論】脚韻が単語単位でないといけない理由

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九鬼によれば、韻の量には音の応和が一音節に止まるものと、二音節にわたるものがある。さらに、前者は母音の応和である単純韻と、母音に先行する子音にわたっての応和である拡充単純韻とに分類され、後者は最後から二番目の音節の母音以下の応和である二重韻と、その母音に先行する子音にわたる応和を示す拡充二重韻とに分類される  

 ——『九鬼周造押韻論』大東 俊一より

 

 九鬼周造を代表としたマチネポエティク(昭和に行われた定型押韻論を試みる運動)の押韻論は音節に着目していて、おおざっぱにいえば「語尾のふた文字で母音をあわせましょう」という理論を打ち出していた。ここが95年にラップグループのキングギドラが提示した押韻法との決定的な違いで、前者はただ単に『音』を、後者は音をふくめつつ同時に『意味』を、それぞれ比較している。

 

 ごたくを並べるのは面倒なので結論から述べてしまうと、脚韻(文章末尾で行われる押韻)を単語で行わなければいけない最大の理由は『建設的だから』ということだ。

 

 マチネポエティクや現行の日本語ラップのようなある種やんわりとした...音節単位の押韻をつかう場合、どこでどのように踏んだかを記述するのに「あいうえお」や「何文字」といったことを意識すると思う。

 

 しかしこの「あいうえお」の母音のならびそれ自体は何の意味ももたない無機質な記号でしかなく、たとえば韻文を評論するときに「豚肉」という単語から「うあいう」という無秩序な母音のならびを引っこ抜いてきて評価することはない

 

  スーパーで買ったおいしい豚肉(aiu

  燻してベーコンにしたらかじる(aiu

 

 このように一致した母音を引き抜くと、われわれは必然的に、それを音節の量によって測ってしまうはずだ。この場合「3音節」といったぐあいに。しかしでは、音節の量が多ければ多いほど高度で優れているのか? あるいは1音節の一致は押韻といえないのか? 最低でも何音節踏めば...

 

 などなど、量を基軸にした話は不毛になりやすい。なぜかといえばそれは個人の酌量に委ねられるからだ。「どこからが金持ちで、どこからが貧乏、どこから幸せ?」という問いと同じ答えが出る。「ひとによりますよ」と。

 

 

 とこんな感じで、単純な"母音合わせ"は評論するうえで割と不都合が大きい。ではそれに対して単語単位の押韻はどこが優れているのか? それはパターンを分析できるという点につきる。例文を載せようとしたが日本語にはあまりに単語単位の韻がないので、ここではシェイクスピアソネット集の有名な18番を引用してみようと思う。

 

  Shall I compare thee to a summer's day?

  Thou art more lovely and more temperate

  Rough winds do shake the darling buds of May,

  And summer's lease hath all too short a date

 

 ここでは「summer's day(夏の日)」「temperate(穏便)」「buds of May(五月の蕾)」「short a date(短い月日)」という語群にアクセントが置かれ、その中でday-rate-may-dateが完全韻ABABの形式で押韻されている。

 

 そして重要なのが「これらのパターンが四世紀前に既に行われている」という記録だ。これら4つの語群がこのような順番で、こういった文脈のなかで登場するという記録があることで、以降の詩人はこのパターンにうかつに手を出せなくなり、他のパターンを探さなければならなくなる。

 

 こういったことは、単語単位でない「一部の母音の一致」では起きない。先ほど書いた「豚肉-かじる」の母音一致の何が劣っているか詳しく書くと、これらは「豚+肉」と「かじ+る」に分けられ、前者は「ぶ」という音が押韻されておらず、後者は「る」という単語でない接尾辞が混入しており、結果として「豚肉 - かじる」は単語単位の韻、パターンとして認識できないものとなってしまっている。

 

 パターンの創造は非常に重要だ。パターンを生み出すことで記録され、文脈に前例を作り、また新たなパターンを探し出す...という建設的な創造のくりかえしが行われるからだ。こういったパターンのサイクルが見えてこないものは概ね発展しない。

 

 そして日本語における押韻詩のほとんどがこのパターンの構築を欠いており、結果として定型押韻詩の土壌は「ただ語尾の母音が一致してる散文」という体をなしてしまっている。自分はマチネポエティクという運動が、その初めの一歩目からことを誤っていたように思える。定型押韻詩の土壌にまず必要なのは『単語単位で韻を踏まなければいけない』という認識だ。

 

 

 最後にもういちど言うが、重要なのはパターンの創造なのだ。一般大衆にもわかりやすいようなパターンを創造をできないかぎり、その分野に発展はない。「韻をふむ」という言葉の意味を思い出してもらいたい。